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岐阜県重要無形文化財

岸剱神社大神楽諸役者心得

行列の道順と役割

1.大世話方 2名

2.露払 2名

★解説

2名、一文字麻裃(かみしも)、白足袋、草履、3尺5寸(約1.15m)位の青竹に和紙一枚四ツ折りを竹にかぶせ金銀の水引にてしめる。杖を持ち先達なので二人並んで大世話方の後を行く神楽舞を打時は立って待っている。

3.鼻高 1名 

★解説

昔の山伏の姿で頭に白髪の上に冠をのせて白衣、白袴、紫狩衣(かりぎぬ)、赤緒の朴歯下駄(ほうばげた)、白足袋、金剛杖に幣が有ります。金剛杖は六角の四尺(約1.32m)位で和紙半帖を三幣に切り、先に刃(けん)を切りません。以前、鼻高役の動作と今のとは少し違います。鼻高は猿田彦命にて日本の土地では、みな猿田彦地である又、命様(かみ)の案内役、先頭に立って道を開く、自動車が多いので気を付けて見物人の整理をする芝打の場所も見物人を押し分けて体形を作る。昭和3年以前の鼻高は15~16才の子供が先頭に立って見物人の子供を暴(あば)いまくるのが鼻高の役目であった。昭和3年からは中年以上がこの役になるので以来暴わぬ追わない。

4.出しの花持ち 3名

★解説

無帽、57桐紋付に紺伴天、茶帯、紺の股引、黒足袋、草履、出の花はたれているので持ちにくく重いので屈強人が必要で3人であるが2人は綱を持って引っ張る。食事、休憩の時は考えて立てかける。自分が用事のある時は綱と替えて持つ。

5.幟り持ち 2名又は3名

★解説

幟は2本、又は3本である。服装は出の花持ち同様で芝打の場合は建て持っている。出の花の後を行く。

6.文化財旗持ち 1名

★解説

幟と同服装にて幟に続いて行く。

7.笠鉾持ち 2名

★解説

2人で交替に持ち服装は出しの花持ちと同様に重いので、特別の度御以外は出しも神前か下の登り口辺りに建てておくのです。

8.神太鼓 2名

★解説

2人で前後に担いで笠鉾の後を行く、笠鉾ない場合は文化財の後に続く、後の人が太鼓を叩いて渡御する御旅又は特別の行列以外は出さぬ、服装は烏帽子(えぼし)水干着用する。白足袋、紙緒(かみお)草履を履く。

9.猿田彦命(さるたひこみこと)と巫女 複数名

★解説

昭和35年頃から始まり、確かな事は不明ですが、柳町に住居の山田栄吉氏(今は京都住居)寄付で始まったのです。鶏冠に金襴の狩衣を着用、白足袋、下駄、6尺位(約1m98㎝)の黒柄の槍、三角の旗のついた槍を持ち巫女を二人連れている。巫女の服装は白衣緋袴、白足袋、赤緒の草履、手には玉串を持ち奉納神楽を打つ家の前にて両脇に巫女と立ち槍を建ててお袚(はら)いを巫女が祓って行くのです。

神楽のお札は他の者がはります。

巫女は榊木(さかき)の小枝に二幣一枚付きの物で祓うのです。

日吉神社の拝殿が昭和46年2月26日焼失する。拝殿新築は昭和48年4月落成、満二カ年の間、日吉神社の神楽は休止致しました。

10.唐子(からこ)と簓裾(ささらすり) 3名

★解説

唐子の三人太鼓は二人で赤地に金襴(きんらん)の特衣金襴のタツキをはき、白足袋、花房ワラジに一文字笠をかぶり腰にはチリメン白地のすごき、太鼓は右腰に結び、はしをたらす。

簓’(ささら)は、唐子と同じ服装で赤黒髪のかずらをかぶり、帯は左腰に結びます。

唐子のすごきは、昭和41年に大手町の村瀬幸吉さん、岐阜県住居の村瀬銀造さん、村瀬錠助さん3人の寄贈です。

余談の様ですが少し付け加えておきます。

唐子を指導する人は随分と骨の折れる事で実にご苦労様です。昭和3年神楽復活の時焼失して10年の間無かったので子供の相要がなく早く覚えられなかったのです。向山に旧田由五郎さんと云う神楽に明るい人で気の短い、口の悪い人で間違ったりすると頭を叩くので当時の子供は旧田さんがこわいので唐子には出ない子もありました。由五郎さんは昭和12~13年頃、神楽の稽古に行くと云って家を出たきり帰らなかったそうです。現在では叩いたりしてまで指導する事ができないので、よほど気長に指導しなければならないので大変ご苦労な事と思います。唐子に出る者は指導者の云う事をよく聞いてすなおに覚えて、何年か後には指導の立場になり続けて行くのです。唐子は昔は芝打ちのとき東西の呼ばる内はかがんで右の足の踵をワラジの返り緒の上に尻を掛けて、ばちの叩く方を地に付けて休んだのですが、昭和3年から衣装が破れると云って尻を足に付けずに今の様な格好に替ったのです。東西が呼ばり終わらぬ内に笛を吹き出し、同時に太鼓を叩き始めて舞うのです。太鼓を叩く方、舞方はここでは述べません。渡御の舞鶴曲位は唐子が覚えて打ちたいと思います。

12.附太鼓打 1名

★解説大太鼓の子供より2~3歳年上の子供で一文字笠に赤地の金襴の裃、小袖、白足袋、下駄、大太鼓打ちを経てきた者である。附太鼓打は子供の役では一番責任の思い役です。八幡町の神楽は子供ですが他所では大人で子供では見られません。先ず第一、笛の音をよく聞き笛吹きが附太鼓に調子を合わせて吹くので打ち方が早ければ早神楽となり、遅ければゆっくりした神楽となるので笛が附太鼓につられて行くのであるから、余程落ち着いて叩く、附太鼓打ちは手が疲れるので神社以外で臨時に替って頂く人があれば助けてもらう、替って頂いた時、自分は左寄りに立ち打つ人は右で叩く。大太鼓でも述べたが渡御の舞鶴曲位は覚えて叩く。

13.鼓打 10名

★解説

般若囃(はんにゃばやし)と言います。8歳~11歳の子供です。麻裃、黒紋付着用、紙製の鶏冠、白足袋、白緒草履、左脇に鼓をかかえる。附太鼓に合わせて打つ。

14.田楽持ち 1名

★解説

一文字笠に麻裃、白足袋、草履で田楽を持つのである。上に幣がある和紙半帖を三幣に切り、上の刃はある。この役は高位の役にて上の保方面の神楽は東西振より上の役というところもあります。別に動作はないが神社で東西振と相向いて東西振の呼ぶ言に同調して田楽を廻すのです。これも神社のみで町内、其の他は神楽堂太鼓の裏右に立って居るのです。もし自分の用事に行の場合は他の人に持ってもらうか神楽堂に軽く立て掛けるのです。

神楽復活以前は14~15歳の子供で私服にて一役あったが神楽復帰時は出しの花の籠下に取り付ければ神楽一人助かる話でしたが反対の人もありましたが反対を押し切って取り付けて昭和37年迄来たのです。出しの花は先頭で田楽は大太鼓の際で出しの花と離れているのが道順と思います。

文化財申請の時、出しの花と離れ独立して以来、向町立町の尾嶋茂氏一人で受け持ち今日に至るのです。田楽には、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣、大神楽と書いてあります。東西振が神社の前で読む形です。御神灯持ちで神の御神体と云う所もあります。

15.神楽堂 4名

★解説

昭和51年、美濃市の大垣屋に大太鼓を新調する話で八幡に来て頂き、神楽堂を一見して『我が内にて製作した神楽堂』と言われました。また、『あまり細かい彫刻ではないが先々の神楽堂で、多分、高山市へ売った物と思われます』とも言われました。買入してから50余年をも経過しているのです。本町の塩谷広五郎さんの寄贈で価格は何程か覚えていません。永い年月で非常に破損がひどいので昭和51年5月に高山市へ持参して大修理をしたのですが思いのほか良くならないようでした。

神獅子頭(7寸)を尾崎の加藤昇三さんが新調して、御寄進下されたのです。神楽堂の中に御供りしてあるのです。昭和3年以来4人で担いで居たが、あまりにも重いので約10年程前から小さい車に仕掛けて引くようになったのです。神社へ上がる時、又は、宮ケ瀬橋の上で練る時は担ぐのです。担ぐにも重いので屈強の人で肩の高低が揃わねば上手に練れないのです。時間も長くて、お祭り気分でお酒の上でもあるが大勢の見物人も土一揆(といっき)相当に揺れますから事故にならなければいいが・・・と心配です。昨年も、あまりにお酒が入って神社の前の鳥居に当たって壊したので修理に出しました。

16.笛吹 10名

★解説(心得)

大神楽の笛吹きは役者の中でも大役にて役者の模範になる人物です。責任は誠に重いので何時も心に掛け油断してはなりません。まず第一笛を大切にして笛で太鼓を叩いたり、其の他の事に使用してはならない笛を吹くのを止める時は前向きの腰に軽く差す。もしも笛頭に誤曲があって気が付いても笛頭の曲にしたがって付いて吹き、あくまでも笛頭の主曲にしたがう。笛を吹く時の姿勢を正しく、芝打ちの場合は舞台に向かって笛尻がやや下がる程度に吹く、昔は水平で吹く様にと云われたが自分で吹いてみて笛尻がやや下がる。

もし、芝打ちの場合に唐子が間違えた時は優しく指導する。

渡御曲で芝打ちの体形でも立って吹く曲が終われば床几に腰掛ける。休む間に附太鼓打ちに早いか、ゆっくり打つかの世話をやく、又、渡御先を警護か係員に聞いて渡御7曲の内を何曲から吹き出すかを考える。又、他の笛吹きとも相談する。

黒紋付、麻裃着用、一文字笠を冠り白足袋、白緒草履(昔は下駄)、芝打ちの曲名は、上獅子、雌獅子、雄獅子の3曲である。渡御は舞鶴、山越、秋月、花車、一二神楽の神乗秋月(かんじょうしゅうげつ)、神車(しんぐるま)の7曲で、そのうち神乗秋月、神車の2曲は秘曲で京都の吉田家より他への伝授は禁止されたのである。

芝打ちの場合に笛頭は1名でもよいが吹き出し音が、かする事があるので次の1~2名が助をする。新町、橋本町の見物人で混雑の芝打ちに立って次に行くか行かないかの連絡がない時は東西振りの呼ばる言葉をよく聞いて納めであれば次へ行くのです。

一文字笠は、かぶって笛を吹くのであるが晩になると笠を背中に負ってもよい(むかしは必ず背負ったもの)これも役者の随意である。しかし、神社の前での奉納神楽は必ずかぶる。

神社以外の芝打ちは大部分が一ツ返しであるが、上獅子のみ二ツ返しで雌獅子、雄獅子は一ツ返しで打つ場合もある。この打ち方も天候や場所を考えて行なう。

神社へ奉納打込曲は一二神楽で上る。獅子が鳥居をくぐれば舞鶴曲に移り、芝打ちの体形になり笛を止める。

神社で奉納神楽を終えて降る曲は神乗秋月で降りる(昔は帰り岡崎)何処の社で奉納しても同じ曲で昇降する。

渡御の行列は行列順序で述べてあるが神楽堂、唐子(大太鼓打ち)、簓裾(ささらすり)、附太鼓打ち、笛吹、市兵衛、おかめ、床几持の順であるが遠い道行きの時は警護の指示で太鼓叩き簓裾、附太鼓、鼓打ち、子供は神楽堂の前を一列で鼓打ちは二列で整頓よく行く、笛吹きは神楽堂の後を離れない様に行く、神楽堂が早足で行く場合があるが笛吹きは早足では困るので注意する。笛吹きは二列で整頓よく行き曲の都合上、前方の芝打ちの有無を心掛ける。少し長い行列などは花車曲で行くのであるが近い道行きでも尾崎から向山へ行く曲は花車で通る。試楽に上中坪を打って下る時、英霊寺の入口内外で神車曲に替るが約二ツ返し半位で通り、舞鶴曲に移る。神車曲でも練らぬが笛はゆっくり吹く。ここで返り笛の神車曲を吹くのは神社より返る習慣である。以前、中坪村社八幡神社が中坪遠野(英霊寺上方)に鎮座しました昭和28年11月3日に岸剱神社へ合併し大神楽でお供して神楽共も送って合併したのである。以来神車曲を吹くならわしである。

昭和10年頃まで芝打ちは上り神楽(流れ水に逆らわぬ)に打つのが本義で、下り神楽は嫌ってあまりに打たぬものでした。もしもコースの都合上打った場合は獅子、太鼓とも後退(あとびさり)して打ったのである。

最近では氏子も多く所望もあって二日間では消化しきれない程です。昭和40年頃までは1軒に1芝でしたが、今日のように交通の激しい時代は、5~6軒まとめて打して貰ので皆様には大変恐縮ですが致し方ありません。

町を廻る都合上、職人町、鍛冶屋町、柳町、肴町、其の他、向町方面は大部分が下がり神楽で打ちながら前進するのでお許しください。南町へ渡る橋は多分、八幡大橋と思うが橋の上だけ神車曲でゆっくり一ツ返しで太鼓は練らずに渡る。前にも述べたが神車曲は秘曲で数を沢山吹かぬ曲で打ち上げの宮ケ瀬橋の上は別ですが二日間に三曲ぐらいしか吹きません。渡御曲で曲の替わる場所は十字路、丁字路、廻り角内外にて曲が替わるか否かを気を付けて笛頭の曲を追う。附太鼓の処でも述べてあるが笛を自由になる者は附太鼓のみである。渡御で曲の替わり目に笛頭が右廻りでやや後へ向き必要ある時は左廻りで獅子が鳥居をくぐったか見る。

試楽本楽の打ち出しには年行事を一芝打って神社奉納する。三ツ返しです。晩の奉納打ち納めには社奉納三ツ返し、又は五ツ返しで社を先に、年行事を一ツ返しで最後に打つ試楽も本楽も最後の打ち納めに舞鶴に入り直ぐ止めて納める。五ツ返しは獅子に相談して打つ、神社で打上げても都合上社外で打上げ納めてから所望があっても絶対に打つことならぬ。

芝打ちは、東西振りが呼び終わらぬ内に笛頭がオーと吹き始める。次の者はヒーヒーから吹き出す。上げ獅子の切コピーは頭が吹き次の者はヒャンヒャリコーヒャンヒャリコーと続きで吹く、雌獅子の始めは頭がヒヒリココと吹く次の者はピーデコピーデコと続く、雌獅子、雄獅子の切りにはヒャリココヒャリココピーと少し長く引くので次の者はデコーデコーと吹く、雄獅子の最後のヒーヒャンヒャリコピーと他の者は吹き切るが頭は吹かず渡御曲のいずれかを吹き出す。

宮ケ瀬橋の渡御の打ち上げは新町より来ても橋本町願連寺の方から来ても、たぶん紙岩附近で小休止して唐子を肩車に乗せて練る準備をする。直井薬局付近で神乗秋月曲に変わり練るのです。皆さんお酒が入っているせいもあって休んで立ち上がると練りたがるので、神乗秋月までは練らずに行くのである。

宮ケ瀬橋の1~2歩手前から神車に移るので一層激しく練る。神車曲を20余曲くらい返して居るうちに神楽堂が急に後へ差して来て笛吹きの列に突っ込む様な事が度々あるので笛吹きがチリヂリバラバラになり曲が違った事もあって見にくい事があるので少しも油断できません。以前は約三ツ返し半ぐらいで通過したのです。文化財に申請と同時に十倍以上も練る事となったのです。文化財にして頂いたのも神車曲があるので文化財の折り紙が付いたと思われます。誠に尊い曲です。この曲は10曲のうち笛吹きは一番、力のいる曲なので近年は多く返す事になり笛吹きが疲れるので神楽堂が橋の上に居る内に曲を替えて舞鶴曲にして練る事を止めたのです。以前の三ツ返し半くらいの時は獅子が橋を渡り終わる迄は曲替えはしないものでした。本町を上がる時、山越曲、秋月曲でお囃がにぎやかで『ソリャヨーイ、ソリャヨーイヨイ―』と神楽方全員、見物人も声を張り上げて囃したのです。昭和40年頃までは神楽奉納をする家は、必ず莚(むしろ)が3枚ずつ敷いてあったので次に打つ家がよくわかったのです。今は莚といっても無いので連絡がないと次がわかにないのです。昔は道路は舗装してないので土埃が立って埃防ぎにもなるが神に改と云う事で莚やこもをしいたのです。今は各家庭に莚はありません。あっても使用しません。

昔は笛吹きがいっぱいいたもので食事や休憩後には大世話方が頭を下げて頼み、ようやく打ったのですが今は笛吹きが自発的に立つくらいでよい事です。今はジュースや其の他よい物が沢山あるが、昔はよい物がないので鶏卵でした。笛吹きには一番、力になる様に思われました。昔は個人でたもとへ入れて下さった事もあった。神楽からも食事や休憩ごとに貰い、たもとの中でよく割らかしたものです。いつでも片付ける時にたもとを洗って干したのです。

笛は昔は私物でしたが昭和3年より神楽の用具ですから他所への持ち出しや笛吹きを永久にやめた事、又は万一ご不幸にあわれた場合には神楽元へお返し下さい。

17.市兵衛 1名

★解説

火男(ひょっとこ)面をかぶり頬かむり、上着は同じ模様の軽袴(かるはかま)、片足に靴を履き、わらじ履き猫背で左の腰に大印籠(いんろう)、其の他をぶら下げ木製の鍬を持って面白くおかしく、これも唐子の邪魔にならぬ様に舞い踊る。舞い方は本人の推意に任せる。以前には市兵衛はなく、昭和3年から新しく出来たのです。

18.おかめ 1名

★解説

水色頭巾にお多福の面をかぶり、女装、振袖姿でしたが5~6年以前から水干しに緋袴(ひばかま)で巫女と同じ服装で右手に扇、左手に神楽鈴を持ち神楽舞台へ入って唐子の邪魔にならぬように女形らしく舞うのです。東西の呼ぶ時はかがんで休んで居るが笛太鼓と同時に立って踊ります。踊りは別に型はありませんので本人の推意に舞うのです。おかめに変装して踊っていただいたのは昭和10年頃から毎年踊ってもらうのです。

19.床几持ち 4名

★解説

床几持、伴天、股引、黒足袋、草履、4名ですが見物人の少ない処は2名でもよいですが、混雑する場所は2名ではできません。今は小形の車に乗せて15~16歳の少年が運んでおります。

20.東西振り 1名

★解説

一名獅子起こしと云う黒の烏帽子、水色の丸の千羽鶴模様の狩丸白衣、白足袋、紙緒草履に大幣を持ちます。小刃一本差します。戦前は下駄でした。位置は獅子に向かって左り、即ち鼓打供例の最後に大幣を肩にかつぎ(左肩にかつぐ)立ちます。神楽奉納の場合は神前(正面)まで普通で歩き神前に向かって左足より3歩目に足を引き両足を揃える。大幣はかついだまま両足揃えて大幣を立ったまま左肩より右手にて受け差し出し、和紙1枚、水引がかけて巻いてあるのを左手にして引き下げ3回礼拝して太の字形に振って点で納め、礼して、『天下太平、国土安穏、五穀豊穣、皆令(かいりょう)満返(まんぞく)所御福喜(ところごふき)に付き、大神楽舞始められ候(そうらい)やー』と神前でとなえる。納められと同じに一文字形に振り和紙で巻いた紙を右手に上げつつ肩にかつぐ、回れ右して普通足で帰ります。所御福喜に付き岸剣神社へ本年の祭礼大神楽舞始められ候やー 芝終わりには候やー と云い肩にかついで元の位置に帰る。大幣を肩にかつぎ出て両手を袖で隠して振る。見物人、役員、役者が注目する役で皆が嫌って10人が10人共出る役ではありません。神楽の役では高位役ゆえ緊張して行う太幣は和紙二帖を七幣に切る先に刃なしで片出の幣がある。切ってから折るには手間がかかる。

もし混雑の場合所望があって打つ処を行きすぎた時は東西振の権利で後へ戻し芝打ちする。新町や橋本町などの見物人が大勢で混雑して連絡もない時は笛が困るので笛頭に手で立つ様に合図する。芝打ちの場合に雌獅子か雄獅子かを忘れた時は獅子舞しに聞くがよい、個人の家では悪魔祓いであるので片手の幣で行う。

21.獅子足 4名

★解説

蚊帳張り4名、伴天、股引、黒足袋、草履、草履、獅子の蚊帳へ入り四角の獅子の足を持ちます。自分の用事がある時は他の人にたのみ責任を持って頂きたいのです。以前にも一人が出て行き帰って来ないので獅子が歩けないような事がありました。

22.獅子廻し 1名

★解説

獅子模様の伴天、紺の腹掛、紺の股引、茶のすごき、獅子の斑点の付いた巾着を脛にあたる黒足袋、草履、豆絞りの手ぬぐいを持ち東西振りが呼ばる内はかがんで休んでいるが笛吹と同時に立って舞わす。岸剱神社の神楽獅子は雌獅子であるのでなるべく口を開いて腰を落とし温厚に廻す。上獅子は前後に動かないが雌獅子は1、2歩前進しさがる。雄獅子は口を閉じて立ち上がり、荒っぽく勇ましく2、3歩前進して後退する。日吉宮の獅子は推す獅子であるので両腕を力いっぱい荒々しく廻すが、ここの獅子は雌獅子であるから日吉の獅子ほど荒々しくないように廻す。中腰で腰を落とすので非常に疲れやすいから早めに交替して行う。余談ですが焼失した獅子は現在の稽古用獅子くらいの重さがあって祭礼に二日間廻すと腕がはれて2~3日程度寝込まれた様です。和田浅造さんの話です。

23.警護 20名

★解説

警護は、紋付、羽織、袴、白足袋、下駄の服装です。行列の時は部門の列と並んで行くのです。

大神楽の言葉

●芝打(しばうち)      上獅子、雌獅子、雄獅子奉納

 

●笛頭(ふえがしら)     獅子頭、笛吹、獅子廻し責任者

 

●床几(しようぎ)      腰掛け

 

●所望(しょもう)      奉納獅子を打ってもらう人

 

●唐子(からこ)       金襴を着た三人の舞子

 

●先達(せんだつ)      行列で先に行く裃着用者

 

●渡御(とぎょ)       行列で道行

 

●年行事(ねんぎょうじ)   神楽の宿

昭和55年4月

筆者 佐藤甲次郎

岐阜県重要無形文化財
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